『散る桜、残る桜も散る桜』 父祖の思いを受け継ぎ、次の世代へと伝えたい
今回は、『歴史街道』7月号(PHP研究所)より、中西輝政氏(京都大学教授)の書かれた論文を引用します。


■吉田松陰
~この国の未来を守るための戦略~


欧米列強の圧力にさらされながら、新しい時代を模索(もさく)した日本史の一大結節点・幕末。この激動期に、日本人の責務として日本の将来を真摯(しんし)に考えた兵学者が、吉田松陰であった。この国の未来を守るため、彼が達した結論とは。
吉田松陰


■近代日本をつくった人

歴史を見るときに大切なことは、「結節の時代」をよく知ることです。ではそれは、具体的にどんな時代なのでしょうか。大人物が次々と輩出される時代、それこそが「結節の時代」なのです。まさに時代が人物をつくるからです。

日本が欧米列強の強い圧力にさらされ、大きくもまれつつ、新しい時代を懸命(けんめい)に模索していた激動の幕末期は、その意味で紛れもない日本史の一大「結節点」でしょう。

その「結節点」において、吉田松陰ほど重要な存在はいません。それは、この国を動かす根本の力がモノではなく心、すなわち教育によってつくられる「人のこころ」にこそあることを、劇的に示した人物だからです。

松蔭が萩(はぎ)の松下村塾(しょうかそんじゅく)において教育に携(たずさ)わったのはほんの数年にすぎず、しかも松蔭自身は明治維新(一八六八)の九年も前に、三十歳という若さで亡くなっています。しかし、村塾から高杉晋作(たかすぎしんさく)久坂玄瑞(くさかげんずい)伊藤博文(いとうひろぶみ)山県有朋(やまがたありとも)品川弥二郎(しながわやじろう)山田顕義(やまだあきよし)といった錚々(そうそう)たる若き志士たちが育ちました。そして彼らがわずか数年で幕府を倒し近代国家・日本を築き上げていったのです。その意味では松蔭こそ、「近代日本」をつくった人といえるのではないでしょうか。

重要な点は松蔭が、彼が生まれる少し前の、ちょうど彼の「師」にあたる世代の問題意識を引き継ぎ、それを噛(か)み砕いて次の世代に渡す役割を果した人だったことです。それだけに、松蔭について考える際には、彼の「師」にあたる世代がどんな時代を生き、日本にどんな新しい思想の流れが生まれていたのかを知ることが不可欠になってくるのです。

今回は、江戸時代後期から続く歴史をタテに貫く「筋」をまず押さえた上で、私なりの吉田松陰像について語っていきましょう。
■内憂外患(ないゆうがいかん)の時代の到来

幕末に登場する主要人物の誕生年を調べていくと、一つの興味深い符合に気づきます。長州(ちょうしゅう)の吉田松陰をはじめ、木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作、また薩摩(さつま)藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)小松帯刀(こまつたてわき)。あるいは土佐(とさ)の坂本竜馬(さかもとりょうま)など、明治維新の牽引役となった若い志士たちの多く(志士の世代)が、一八三〇年(天保元年)前後の生まれと不思議と一致しているのです(松蔭は松下村塾では先生の立場でしたが、、実は教え子の志士たちとあまり年齢差はありませんでした)。

一方、佐久間象山(さくましょうざん)横井小楠(よこいしょうなん)緒方洪庵(おがたこうあん)など、松蔭ら志士たちの「師」に当たる世代は、これまた一八一〇年(文化7年)前後の生まれに集中しています。また松蔭を手塩にかけて薫陶(くんとう)した玉木文之進(たまきぶんのしん)も、同じ一八一〇年生まれです。

大学の教員として長年、学生を教えてきた立場からすれば、これは単なる偶然とは思えません。この両者の二十年という年齢差は、弟子が師と張り合ったり、反発しないほどには離れており、また師が弟子に甘くならないほどに接近しているという意味で、絶妙の組み合わせではなかったかと思います。

では、幕末の「志士の世代」がその「師の世代」から受け継いだ問題意識とは何だったのでしょうか。

象山や小楠が生まれ育った一八一〇~二〇年代は「文化・文政(ぶんせい)」時代と呼ばれ、江戸の都市文化が爛熟(らんじゅく)期を迎えた頃でした。

しかし、表面上の繁栄の陰で、心ある思想家はその前の天明(てんめい)・寛政(かんせい)の時代から持ち越してきた内憂外患(ないゆうがいかん)の危機的状況がいつ爆発するか、つねに頭を悩ませていたのです。

たとえば、天明二年(一七八二)から始まった「天明の大飢饉」は、幕府が有効な手立てを打たなかったために民衆の怒りが爆発して、全国で百姓一揆や打ちこわしが発生。当時の幕閣(ばっかく)に大きな衝撃を与えました。

一方、幕府に失望した人びとの期待は朝廷に向かいます。天明七年、光格(こうかく)天皇の在位中、御所(ごしょ)の築地塀(ついじべい)の周りを毎日数万人の人が巡り歩く「御所千度参(せんどまい)り」という出来事が起こります。未曾有(みぞう)の自然災害に苦しんだ民衆は生活苦からの解放を求め、突如として、天皇が「神の子孫」であることを神話、つまり「民族の記憶」の中から思い起こして、かつてない切実な祈りを捧げたのです。日本古来の「尊王」精神が、すでに幕末を先立つ半世紀前のこの頃から、再び高まりを見せ始めていたことがわかります。

同じ頃、寛政四年(一七九二)、ロシア使節のラクスマンが根室に来航して通商を要求したのを手始めに、日本近海に列強の異国船が相次いで出没するようになります。

従来の鎖国という幕府の対外方針は、大きな動揺をきたすことになりました。

時の老中(ろうじゅう)松平定信(まつだいらさだのぶ)は、伊豆や相模(さがみ)の海岸を視察する一方、諸藩に江戸湾や蝦夷地(えぞち)の防衛強化を命じますが、以後、日本は「西洋の脅威」というものに対して、延々と危機意識を抱き続けることになります。

つまり、もし嘉永(かえい)六年(一八五三)のペリー来航によって日本人が初めて「西洋の脅威」に気づき、近代化の必要性に目覚めたと考える人がいるならば、それは今すぐ改めるべき誤解だということです。

当然、佐久間象山をはじめとする松蔭の先生、つまり「志士たちの師」に当たる世代は、こうした天明・寛政時代に生じた日本の新しい問題に対処するための方策を、差し迫って考えざるを得ない巡り合わせだったのです。

しかも彼らが育った「文化・文政」時代は、日本人の文化・思想レベルが江戸時代を通じて最高潮に達していた時です。彼らは東洋だけでなく、西洋の国のあり方や最新技術に関する知識も難なく消化し、次々と自分のものにしていくクールな能力にもすぐれた”新人類”だったのです。

そして、松蔭たち「志士の世代」は、そうした”新人類”世代の知的蓄積(ちくせき)を吸収しながら、さらに次の時代の課題となった「この国の独立と尊厳を守る」ためには、何が一番大切なのかをホットに考え、行動につなげていった世代なのです。

■「兵学者・松蔭」という視点

ところで、これまで松蔭というと、もっぱら思想家や教育者としての面から語られることが多かったと思います。けれども、ふつう偉大な人物というのは、大変に多面的な本質(多くの顔)をもっています。そのうちの「どの顔」を重視するか。それは見る人の時代の課題によって決まってくるのです。

そもそも、山鹿(やまが)流兵学を家学とする家の跡取りとして鍛えられた松蔭という人は、「西洋の脅威」によって日本が国家的な危機に瀕(ひん)していた時代に、わが国存立(そんりつ)のための「国家戦略」を兵学者として具体的に考え抜いた人でした。この「兵学者・松蔭」像こそ、彼の思想を考える際の原点であるべきだ、というのが私の解釈です。

天保年間最初の年、一八三〇年に生まれた松蔭が、天保十一年(一八四〇)、わずか十一歳で藩主の前で兵法について講義するほどの天才少年だったことは有名です。また同じ頃、「アヘン戦争始まる」の報に接します。兵学者であったからこそ、彼は誰よりも、この身近に迫った「西洋の脅威」を重く受け止めることになりました。

兵学修行時代の前期において、松蔭は、家学の山鹿流以外にも積極的に他流の兵学を学び、特に長沼(ながぬま)流の山田亦介(やまだまたすけ)(やはり一八〇九年生まれ)に入門して西洋陣法や海防兵制について教わったことは、大きな刺激になりました。亦介は、近頃西洋列強が東洋をしきりに侵略し、さらに琉球や長崎までその矛先を伸ばしてきているので、防御策を講じることが急務だと、繰り返し松蔭に説いたのです。

また後期では、藩の外に出て、諸藩の士や思想家たちと交流し、特に西洋の科学技術や時勢に対する見識について熱心に学ぶことになります。松蔭が「当今の豪傑(ごうけつ)、都下(江戸)一人」と称した佐久間象山(一八一一年生まれ)に師事したのもこの頃でした。

ただし、この時期の松蔭は、その頃の志士によくあったような有識者との交流を第一義としていたわけではありません。北は津軽(つがる)半島から西は平戸(ひらど)まで、彼が諸国を練り歩いたのは、兵学者として、日本はどこから攻められると危ないのかを、調べておく必要があると考えたからでした。そして、すでにペリーの来航の前年までに、松蔭は日本の国防状況の実地調査を終えていたのです。

この頃の松蔭は、公的には長州藩の末席に連なる一介(いっかい)の藩士であり、今でいえば二十代前半の「一民間人」にすぎません。にもかかわらず、彼が諸国を練り歩き、海防策を考える行動をとったのは、明らかに一長州藩士という意識を超えて、「日本人としての責務」から日本の将来を考える「偉大なるボランティア精神」のなせる業(わざ)だった、といってもよいでしょう。

■最終的に達した結論とは

「自分が日本の国の存立を担わなければならない」という、「明確なボランティア意識」に燃えた兵学者、つまり「安全保障の研究者」としての松蔭が立てた戦略が、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」だったのです。ここで大切なのは、彼のスローガンである尊王攘夷は、世上思われているところの「日本は神の国であり、日本にはどんな夷狄(いてき)も入れてはいけない」とは意味が全く異なることです。それは、松蔭の次の言葉が象徴しています。

「始めに勤皇(きんのう)ありて攘夷にあらず。攘夷なるがゆえに勤皇たらざるべからず」

すなわち、あくまで攘夷(日本の独立主権の擁護)を行うための勤皇(尊王)なのであり、最初に尊王という絶対的立場があるのではない。攘夷、今の言葉でいうならは国防対策、安全保障のための「戦略」としての尊王である、ということなのです。

「西洋の脅威」に対抗するためには、今のような幕藩体制(封建割拠)の枠組みを超えて日本人の力を結集する必要がある。それを、天皇への忠義の名のもとに行うのが、この国の選択であるべきだと、松蔭は考えたのです。

こうした「戦略としての尊王攘夷論」を掲げる松蔭が、単純な「皇国史観」の持ち主や、天皇崇拝(すうはい)それ自体が目的の論者ではなかったことは明らかでしょう。

しかし、当時の知識人階級の中には、いや既存の知識人階級に属するゆえというべきか、松蔭の説く「尊王攘夷」という戦略を認めない人がいました。たとえば、朱子学(しゅしがく)者で長州の藩校・明倫館(めいりんかん)の元学頭の山県大華(やまがたたいか)(一七八一年生まれで、松蔭よりも五十歳も年長。つまり、二世代上の人ということになる)は、松蔭と次のような論争を繰り広げています。

松蔭が『古事記』『日本書紀』を持ち出して日本の国体(独自な国のあり方)を強調するのに対し、大華はそんな日本中心の考えは不合理だ、もっと国際的な視野(朱子学的な中華世界に基づく中国中心史観)に立った「普遍的な考え方」をすべきと退けます。

また、松蔭が時の幕府が西洋列強の武力に屈したかたちで開国を進めていることを嘆(なげ)くのに対し、大華はそうした西洋のやり口は無礼だが、日本側に対抗できる手段がない以上、深く怒るべきではなく、「許容するより仕方があるまい」と、無責任にもいってのけるのです。

この「もの言い」は、どこかで聞いたような論法ですね。私などは、まるで「現実主義」と称する戦後知識人の一典型を見るような思いがしますが、このような退嬰(たいえい)的な現状追認の姿勢を続けていれば、その後の日本は間違いなく植民地化の歴史を辿っていたでしょう。松蔭も田大華に対して「怯懦(きょうだ)極まれり」と酷評しています。そもそも松蔭にしても、日本が現状において西洋に武力で対抗できるとは考えていません。科学技術で先行する西洋の軍事力に、劣勢のわが国がいまさら戦(いく)さを挑んで勝てるはずかないからです。

その事実を兵学者たる松蔭は誰よりも潔(いさぎよ)く認めた上で、さらに日本を守るための現実的で、かつ戦略的な手立てを、合理的な思考で突き詰めていくことになります。

そこで、最終的に彼が達した結論は、この国の未来を守るためには、一見もっとも「迂遠(うえん)」と思われるものでした。

松蔭は、既存の社会の枠組みにとらわれない若者たちを集めて「教育」し、彼らの少数の自覚的分子(ボランティア)が決死の行動を起こすことにより――これを「草莽崛起(そうもうくっき)」といいます――必ずや広範(こうはん)な人びとが共に立ち上がり、新しい時代を迎えることができるはずだと信じたのです。

安政(あんせい)四年(一八五七)、ここに松下村塾が誕生しました。そして、松蔭の精神に感化された若者たちが、爆発的な力を発揮して一気に明治維新に突き進んでいったことは、冒頭に述べたとおりです。

「西洋のモノではなく、日本人のこころにこの国の未来を託す。そのためには、若者の教育しかない」

幕末動乱の時代に、この一点を読み違えなかったところにこそ、私は兵学者、つまり国家戦略家・吉田松陰の真骨頂(しんこっちょう)を見る思いがいたします。

近代国家の運営において、どの国でも重要なことは、「戦略を考える立場の人間がどれほど物事を深く考え、同時にそれがその人たちの使命感とどれほど深く結びついているか」ということです。それによって国の運命が決まってくるからです。

その意味でも、いま「これからの日本」という大きな国家戦略を考える際、「日本人のこころ」を失ってしまえばこの国は滅びる。何をおいてもこれを「再生」しなければならない、という深い使命感と結びついた松蔭の戦略的思考を、我々は思い起こす必要があるかもしれません。【終】


吉田松陰が大切に考え、未来を託した「日本人のこころ」。今、その「日本人のこころ」は風前の灯なのではないでしょうか。中西氏の指摘通り、この「日本人のこころ」を再生しなければ我が国は滅びます。今を生きる私たちは、こころの再生を果し、「草莽崛起」する時だと思います。

「草莽崛起」について、これを社是にしている日本文化チャンネル桜のメルマガより、解説を引用して終わります。

◇◆◇ 「草莽崛起」とは? ◇◆◇

志を持った在野の人々こそが日本の変革を担う原動力になるということ。吉田松陰が唱えたこの「草莽崛起(そうもうくっき)」論は、久坂玄瑞が武市半平太に宛て、坂本龍馬に託した有名な書簡にも見られます。

「竟に諸候恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、
           草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事 …」

先の読めない国際情勢と多様化する価値観、あふれる情報の中で混迷を深める現代日本が必要としているものこそ、まさに名もなき “草莽の志士” ひとりひとりの力です。




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コメント
この記事へのコメント
>milestaさん
>今の時代、表面だけ見れば日本は比較的安泰で平和なので、真剣に変化を望む人というのは少ないのでしょう。

そうかもしれませんね。一人でも多くの方が今ある日本の危機に気付いて下さると良いのですが・・・。

政治の世界は自民党も民主党も玉石混淆ですので、政界再編が臨まれますね。私は、平沼氏が中心となり、私たち保守の受け皿となる政党が出来ると信じています。

ともかく、目覚めた人が出来ることをしていくしかないですね。
2008/06/20(金) 16:24 | URL | spiral(管理人) #l7AT0Hcg[ 編集]
時機
決して民主主義を否定するわけではありませんが、現代は志のある人たちがその志を国民(有権者)によって拒否されたり茶々を入れられたりしてしまうことが多いですね。
今の時代、表面だけ見れば日本は比較的安泰で平和なので、真剣に変化を望む人というのは少ないのでしょう。
そうした中で、日本の危機の予兆に気づき立ち上がった人たちを支える仕組みが欲しいです。草莽崛起といっても、今のままでは、志を持った政治家たちの所属政党がバラバラで、有権者としての支えができません。小選挙区制の難しさはわかりますが、もうそろそろいいのでは?と思います。
吉田松陰は「理論だけでなく行動を!」という考えの持ち主でもありますよね。現代の志士たちには、その辺りも踏襲して欲しいです。
2008/06/19(木) 09:44 | URL | milesta #S4B2tY/g[ 編集]
>あっちゃん
今は、文末に引用した久坂玄瑞の手紙にあるような「竟に諸候恃(たの)むに足らず、公卿恃むに足らず、」という状況だと思います。

私たち民草が草莽崛起し、平成維新を起す時ではないかと思います。
2008/06/18(水) 09:47 | URL | spiral(管理人) #l7AT0Hcg[ 編集]
う~ん・・・
吉田松陰の唱えた維新の功労は数限りなくありますね。

天皇陛下を頂点に国民が団結できたのも維新があってこそでした。

維新の思想に命を懸けた吉田松陰とその子弟たち幕末の志士は今の世の中を見たら何と言うでしょう・・・。

左翼の反天皇派が幅を利かせてやりたい放題の世の中って。

彼らが命を懸けて成した維新って何だったんだろうって思わざる時代になってしまいました。

左翼の掲げている人間の平等なんて奇麗事のまやかしでしか無いのにね。

今の時代にこそ草莽掘起・・・志を同じくした人々が決起するには良い時代なのかも知れませんね。
2008/06/17(火) 09:50 | URL | あっちゃん #TT0fzUCU[ 編集]
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