■シベリア50年で知った祖国の恵み
五十年間待ち続けた妻と「他人の不幸の上に自分の幸せは築けない」と送り出してくれた女性―この愛情物語の背景には、一人の日本人の祖国への熱い思いがあった。
「近々、私の半生がドラマとしてテレビで放送されます」
小誌の読者である蜂谷彌三郎(はちややさぶろう)さんから、そんな連絡をいただいたのは昨年十月のことだった。
現在、蜂谷さんは八十九歳になるが、終戦後、平壌で引き揚げを待っていた昭和二十年、無実の罪でソ連軍に連行され、平成九年に帰国するまで五十年もの間、ソ連での抑留生活を送った方である。
蜂谷さんが言った番組は、昨年十一月二十五日、阿部寛が蜂谷さん役を演じ、黒木瞳が蜂谷さんの妻の久子さん役を演じた「遥かなる約束」(フジテレビ系列)として放送され、これを観た小誌の読者からも感銘の声が届けられた。編集部ではこの放送をきっかけに、ぜひ直接お話を伺いたいと、蜂谷さんに取材を申し入れた。
「帰国以来とにかく日本のことを知りたいと思って、大手の出版社が出している色々な本や雑誌を読んでいますが、『明日への選択』は今の日本がどうなっているのかということが一番よく分かる。薄いのに、肝心なことがぎゅっと詰まっていて余計なことが書いていない。私には一番向いているんですよ」
こう言って快諾して下さった蜂谷さんを、鳥取県の自宅に訪ねたのは二月初旬のことである。
実は蜂谷さんの半生は、今回放送されたドラマの他にも、「クラウディアからの手紙」(ホリプロ)という舞台劇や『クラウディア 奇蹟の愛』(村尾靖子著、海拓舎)などの本にもなっている。それらは、蜂谷さんを支えた二人の女性の「純粋な愛」を軸として物語が構成されているのだが、今回じかに話を聞いたところ、そうした愛情の物語だけでなく、「石にかじりついてでも、生きて日本へ帰る」という祖国への思いが蜂谷さんを支えていたことを知り、深い感銘を受けた。
記者のインタビューは昼食をはさんで五時間にも及んだが、その取材メモをもとに、五十年に及ぶこの物語の、そもそもの経緯から話を始めることとしよう。
戦時中は平壌の陸軍造兵廠で検査係をしていた蜂谷さんは、終戦後、妻の久子さんと生後間もない久美子さんと引き揚げの時を待っていた。
蜂谷さんはその頃結成された日本人会で雑用の手伝いをしていたが、昭和二十一年の春、その日本人に安岡という男が現れる。満州からの避難途中だという安岡を気の毒に思った蜂谷さんは彼を食事に招待した。それが悲劇の始まりだったのである。
《その安岡という男は三、四回私の家に来たでしょうか。いつも食事を終えると、「ありがとう」も言わずにふいっと出ていく。ヘンな人だなと思っていました。
七月の終わり頃、突然、私の家に兵士が十人ぐらい踏み込んできて、私をスパイ容疑で連行しました。突然のことで訳が分からず、とまどうばかりでしたが、家内に「何かのまちがいだろう、何もやましいことはしてないのだから、二、三日もすれば必ず帰ってこられる。久美子を頼む」と言って家を後にしました。しかし、それが五十年にもなるとは・・・・・。》
当時蜂谷さんは二十八歳、久子さんは二十九歳、久美子さんは生後一年二ヶ月のことである。
連行された蜂谷さんは元平壌刑務所の留置場に入れられた。
《取調は、それはもう厳しいものでした。夜の十一時頃から始まり、明け方まで続くこともたびたびで、一方的に「爆発物はどこに隠してあるのか」「武器はどこにあるのか」と、そればかり訊くんです。爆発物とか武器とか言われても、「知らない」と答えるしかない。そしたら今度は拷問です。最初の取調の時、手刀で首の後ろ何度も殴られて気絶させられたんですが、それ以来左耳が突然聞こえなくなりました。
そんな取調が続いた後、十二月になって法廷に呼び出され、二人のこ男の人と並んで座らされました。
その二人と法廷で初めて顔を合わせたんですが、どういうわけか私を含め三人は「共謀者」ということになっておった。そして裁判官を見ると、傍らにあの安岡という男が座っていたんです。私達三人は「あ、安岡」と口にしました。どうやら三人とも安岡を知っていたことから「共謀者」とされたようでした。今でも彼が何者なのか本当のことは分かりません。
裁判長が「この三人とはどういう関係か」と尋問すると、安岡は「この三人は私が徴用したスパイだ」と言いました。冗談じゃない。私は彼に徴用されたこともないし、スパイでも何でもない。彼を食事に呼んだだけです。
「何を言うか!」と抗議しましたが、一切無視され、それで裁判は終わり。判決は反ソ連スパイ罪で、懲役十年の刑を宣告されました。》
わずか十分足らずの裁判であった。法廷を出ると、蜂谷さんたち三人は別室で首に拳銃を押し付けられ、判決文へのサインを強要されたという。
■シベリアの強制労働収容所へ
翌年、蜂谷さんはシベリアの強制労働収容所へ送られる。平壌からウラジオストク、ハバロフスクなどいくつかの中継刑務所を経て、ウルガルという山の中にある収容所に入れられることとなった。
《平壌の留置場にいた時から身体を冷やして体調が悪くなっていたんですが、零下何十度というシベリアに送られてからは足の裏が物凄く腫れて歩けないような状態になりました。ウルガルの収容所で医者に診て貰うと、腎臓病ということでした。
歩けないから収容所の中では這って移動しました。一番辛かったのは、便所が百メートルも離れた所にあり、途中でもらしてしまうことです。腎臓が悪いから、一度行ってもしばらくするとまた行きたくなる。するとまた漏らすわけです。囚人は着替えなどありませんから、もう臭くて臭くて。あれほど情けなく屈辱的なことはなかった・・・・・。
しかし、そうした病気になっていても、収容所では熱がなければ病人扱いされないんです。だから、私も重労働に駆り出されました。シベリア鉄道のトンネルに使う砂を掘るんです。氷を鉄の棒で割って砂を掘り出し、一立方メートルのブロックに固めるのが私の班の一日のノルマでした。歩けない私は、同じ班の人に両脇を抱えられて現場まで行きました。でも、二割くらいしかできない。ノルマが達成できないと罰として食事が減らされました。それでとうとう倒れてしまったんです。》
■何としてでも生き延びねば・・・・・
蜂谷さんは「オッペ」という衰弱囚人班に入れられ、療養生活に入った。治ったとしてもまた重労働に駆り出され、いずれは死んでしまうと思うと目の前が真っ暗になった。だが、分かれた妻子の消息も分からないまま死ぬわけにはいかない。生き延びねば。そう考え続ける中で、理髪師になる道を見出すことになる。
《同じ囚人に田村さんという理髪師さんがいましてね、時々収容所内の散髪を手伝いに行っていた。炊事場の人達と顔見知りになって沢山食べ物を貰ってきているから顔がつやつやしている。その健康そうな姿を見て、「これだ!」と思いました。生き延びるためにはもう理髪師になるしかないと。もちろん理髪なんて習ったこともありません。それでソ連の理髪師に何とか取り入ろうと思って収容所内の理髪所に出かけ、頼まれもしないのに床を掃いたり、水を運んできたり、ペチカの火加減をみたりして、理髪の仕事を見て覚えようとした。
最初のうちは放り出されたこともありました。しかし、ある日、二人の理髪師が「バリカンが切れない」と話しておったので、研いだ経験なんてないけれども引き受けたんです。ここが正念場だと。色々失敗しながら工夫を重ねたところ、ガラスで磨くのがいいということが分かり、鏡のように光るまでに磨きました。それで渡しましたら、彼らはとても喜んで、以来、私のことを「ヴアーチャー」(おやじさん)と呼ぶようになった。それからは間近で髪の刈り方を覚え、時にはひげ剃りをさせてくれるようにもなったのです。》
そんな矢先、蜂谷さんは寒帯マラリアにかかって囚人病院送りとなったが、そこでもただでは起きなかった。囚人の中にいた漢方医から、人間の体のツボや指圧の方法を教わり、熱心にそれを修得したという。
一九四九年(昭和二十四年)八月、蜂谷さんはマガダンの収容所へ送られることになった。マダガンはオホーツク海に面した北極圏の入口にあり、囚人の間ではあそこへ入って生きて帰って者はないと恐れられていた所である。だが、蜂谷さんが必死に覚えた理髪の技術は、ここで活きることになる。
《マガダンで私が収監された収容所は、特に政治犯が収容された所であり、取調が殊のほか厳しい所でした。
入って間もない頃、アルメニア人のセルゲイという理髪師が使い古した剃刀(かみそり)を「どうにかしてくれ」と頼んできた。無理だと思いましたが、「中すき」という誰も出来ないような難しい方法で研いだ結果、立派な剃刀になりました。それを持って行ったらセルゲイはとても喜んで、「一緒に仕事をしないか」と。彼は収容所の許可を取り付け、私を正式に理髪師として採用してくれました。実は私はそれまで「中すき」なんてしたこともない。一か八か、生き延びるために必死だったんです。囚人服ではなく、理髪師の清潔な制服を手にした時は「これでなんとか生き残れる」と思い切り泣きました。
一生懸命仕事をしていると、日本の囚人で、物凄く腕がよく、指圧もしてくれる理髪師がいるということが収容所の外でも評判になりました。収容所の理髪店に入りたいと外部からの客がひっきりなしで、座る暇もないくらいでした。それで、一般の人がたくさんやって来ると治安の面で問題があるということで、収容所の外に一般客相手の理髪店ができ、料金をもらって散髪できるようになったんです。店は大繁盛でした。》
ソ連のシステムでは、収入を中継刑務所司令部に納めると刑期が一日につき二日減刑された。懸命に働いて収入をたくさん納めた蜂谷さんは、十年の刑期を七年で終えた。昭和二十八年(一九五三年)のことであった。
■日本人の恥になってはいけない
どんなに過酷な状況に追い込まれようとも、不屈とも言える意志の力で、生きる道を切り拓いてきた蜂谷さん。その原動力になっていたのは何だったのだろうかと尋ねた。
《雲をつかむような、かすかな希望でしたが、生きていさえすればいつか母なる国へ帰れるかも知れないという思いでした。もし運なくして命を落としたとしても、死んだ後で物笑いの種になることは日本人として許されないことだと思いました。日本人の恥になってはならない。そういう生き方を何よりも心掛けました。
服役中も、私は終始一貫、無実を主張するがゆえにますます疑惑が深まり、執拗に取調を受けました。KGB(ソ連国家保安局)の厳しい取調に、時折日本人としての心の拠り所失い、挫折しそうになりました。そんな時は、毛布を被り小声で何回も教育勅語を唱えるんです。すると、日本人としての気概がふつふつと甦ってきました。教育勅語と五箇条の御誓文は毎朝毎晩唱えることにしていましたが、一日に何十回繰り返したこともあります。
収容所を出て以降は、日本語を話す人が誰一人いない中、「日本語を忘れたら日本人でなくなる」と、漢字の書き取りもしました。今日は「木」偏の字、次の日は「言」偏の字という具合に、百字ずつ新聞の耳に書きました。教育勅語と五箇条の御誓文は、月に一度、必ず清書しました。でも、教育勅語の「之ヲ中外ニ施シテモトラス」の「悖(もと)」の字だけは日本に帰るまで思い出せなかった・・・・・。
子供の頃に覚えた小倉百人一首を九十四首まで思い出し、朗詠すると日本にいるような気がしました。「ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ」。この句の美しさは、日本語以外では絶対に表現できません。この句を口にすると泣けてきました。
日本の歌もたくさん歌いました。童謡や唱歌、謡曲など、覚えていた日本の歌をことごとく毎日林の中に行って二時間も三時間も大声で歌うんです。そうすると辛いことがあっても心が落ち着きました。》
こうした祖国への思いが、蜂谷さんの生きる力の源泉だったのである。
■叶わない帰国
だが、刑期が明けても一向に帰国は許されなかった。引揚事業は昭和三十一年十二月を以て終了する。しかし、どういうわけか蜂谷さん一人だけが取り残されたのである。
《風の便りによると、軍事捕虜は全員帰国し、囚人として服役中の日本人も次々と帰国しているというのに、私は保安局の窓口で住居許可の認印を毎月受けなければならない身の上でした。マガダンの町から一歩も出ることは許されず、厳しい監視を受けておったんです。窓口で「いつ日本に帰れるのか」と尋ねても「時期が来れば帰れる」の一点ばりでした。》
一方、この間、平壌で別れた妻の久子さんと娘の久美子さんはどうしていたのだろうか。
《当時は平壌から日本に無事に引き揚げたのか、生きているのか死んでいるのかそれすらもまったく分かりません。だから、ずっと心配していました。いつも気が狂うほど想い出しますし、空想もしました。二人は愛し合っていましたからね。三十代、四十代は貴重な時だし、女ひとりで生きていくのは大変だから、いい人がいたらわしにかまわんで再婚してくれ、といつも口に出して言っておりました。
一九五六年でしたか、郵便局から小包が届いているから取りに来いと言ってきました。初めは信じなかったので行かなかったけれども、再度の通知で受け取りに行ったら、宛名は「マガダン市 日本人理髪師 蜂谷彌三郎」。差出人の所は切り取られていましたが、日本からの荷物だということは分かりました。よく見ると三年前の昭和二十八年(一九五三年)の消印で、モスクワ経由で届いていました。
開けてみると、大きな箱なのに中身は三分の一くらいしかなかった。玉露、こぶ茶、鰹節、歯磨き粉、歯ブラシ、石けん、タオル、そんなものが入っていました。あとは没収されたか盗まれたんでしょうね。
他には写真が四枚。家内と娘を撮ったもの、娘が小学校一年の時の格好をしたもの、それと私の母と妹の写真。それから雑記帳の紙に買いた片仮名書きの手紙も入っていました。それには「ワタクシハ オトウサンニ アイタイトオモイマス ハヤクカエッテキテクダサイ クミコ」と書いてありました。別れたときは一歳を過ぎたばかりの娘が、片仮名で手紙を書くまでになった・・・・・。私は気が狂うのではないかと思うくらい、大声をあげて泣きました。》
■クラウディアさんとの出会い
しかし、冷静になって考えてみると、生死さえ分からなかった妻子が生きて日本に帰ったことが分かり、肩の重荷が下りた思いもした。また、日本からの小包が届いたということは、その逆もあり得るのでは、と思えた。そこで蜂谷さんは涙ながらに、久子さんに手紙を書いて投函した。それは、再婚を勧める手紙だった。
その手紙を出してからは、生きた屍のようになってしまったという。
《職場の同僚たちがそんな私を見かねて、どうせ日本には帰れないだろうから、ソ連国籍を取って人並みに暮らしたらどうか、とすすめてくれました。生き抜くためにはそれも仕方がないのかなと頭では思うものの、祖国を裏切るような気がして、なかなか決断できませんでしたね。
しかし、無国籍者としてソ連のどこかでひっそり死んでいくようなことは避けたかったし、生きておるということをメッセージできる立場だけでも確保しておきたかった。なにしろ、収容所を出てからもKGBの取調を執拗に受け、いつ「偶然の交通事故」で抹殺されるかも分からない状態でしたからね。それで、いつか日本に帰れる時がきたら返上しようと、断腸の思いでソ連国籍を取得しました。一九五六年の秋ごろのことです。》
けれども、国籍取得後も監視は続き、浮かない気持ちの日々は変わらなかった。そんな時、蜂谷さんは一人のロシア人女性と出会う。クラウディア・レオニードブナさんである。
《知り合った時は食堂で、たまたま同席して言葉を交わすようになりました。身の上話がきっかけでした。私と同じ境遇で、無実の罪を着せられていたことがわかったのです。》
クラウディアさんは一九二一年、代々続いたロシアの大地主の家に生まれた。が、革命を経てソ連が成立した後、粛清されたのか父親が姿を消し、継母の手で乞食に売られる。その後ある農家に保護され養女となるが、貧しかったために学校にも満足に行けなかったという。だが、努力に努力を重ねてエリートしか入れない共産党青年部に入り、やがて国の食糧倉庫に勤務。陸軍軍人とも結婚し、男児をもうけ、人並みの生活を手に入れる。
ところが、倉庫の物資を横領していた勤め先の上司が、自らの罪をクラウディアさんになすりつけたため、クラウディアさんは生まれて間もない子供を置いて強制労働収容所へ入れられる。国家財産横領罪で十年の刑だった。だが、刑を終え家に帰ると、夫は見知らぬ女と暮らしており、息子は親戚の家を転々として行方知れずという現実が待っていた。
それでも、そんな不幸を忘れようと、がむしゃらに働き、その一方では困っている人の世話をしたり、経理士になるための勉強も重ねていた。蜂谷さんと出会ったのは、そんな時だった。
《境遇が似た者同士でしたからね。私達はお互いに慰め合いました。
知るにつれてその人間性がわかってきたのですが、一口に言って、クラウディアという女性は純真で汚れのない心の持ち主で、困っている人のためにはどんなことでもして助けるという性格です。
結婚などするつもりはなかったものの、周りの皆がこんなに仲良くしているのだから一緒になったらどうかと勧めてくれたものですから、一九六二年に一緒になったんです。
ソ連崩壊まで私への監視はずっと続き、定期的に尋問されましたから、どんなに親しい人でも最後の一線では気を許すことができませんでした。そんな中でクラウディアだけが私の救いでした。クラウディアは「日本人スパイの妻」と白眼視されても私を支えてくれました。
彼女と暮らすようになってからというもの、私は人が変わったと言われるほど優しい自分を取り戻してゆきました。
二人はよく働き、地元では評判の夫婦でした。年金生活に入ってからは養蜂をしたり、乳牛を飼って農民として生活していました。秋の乾草の刈り入れ時、渡り鳥が飛んで行くのを見て、滋賀で生まれ育った私は「行く雁の宿はいづこの岸ならむ琵琶のほとりの葦かげぞ念ふ」という歌を作りました。クラウディアはそれが分かるんです。涙を流して私を慰めてくれました。》
監視下にあっても、クラウディアさんとの日々は蜂谷さんに心の平穏をもたらした。それは、日本に帰国するまで三十七年間続いた。
■待ち続けた妻
クラウディアさんと一緒になって三十年を経た一九九一年、ソ連が崩壊し、ようやく蜂谷さんを苦しめた監視体制がなくなった。しかし、長年しみついた恐怖心と警戒心はそう易々と消え去るものではなく、日本へ連絡しようと思っても、その都度ためらわれた。
だが、それから五年ばかり経た一九九六年、人を介して日本の家族の安否を問い合わせたところ、思いがけずも娘の久美子さん夫婦と弟の行雄さんとが、一週間の予定でロシアに来ることになった。同年八月二十一日、蜂谷さんはブラゴベシチェンスクも空港で、五十年ぶりに久美子さんとの再会を果たした。平壌で別れた生まれたばかりの赤ん坊は、頭に白いものが混じる、五十一歳の女性になっていた。
《その夜、初めて知ったんです。妻の久子が再婚もせず、「必ず帰ってこられる。久美子を頼む」という私の言葉を信じて待ち続けていることを。
五十年もの間、あの一個の小包が届いた以外には、日本との連絡はいっさい断たれておったので、本当に驚きました。再婚を勧めた私の手紙も届いていなかったんです。
久子は引揚当初、滋賀県草津の私の実家に身を寄せ、その後鳥取の自分の実家に戻ったそうです。もともと看護婦だったことから戦後できた保健婦の資格をとり、女手一つで娘を育てたということでした。娘が持ってきてくれた久子の手紙には「是非 是非 帰国出来ます日を祈っております」と書かれていました。》
夢にまで見た家族との再会、祖国への帰国の展望――嬉しくないはずはなかった。だが、蜂谷さんは「生身を切られる思いでした」と言う。
これまで支えてくれたクラウディアさんを一人残すことはできないという思いと、年老いた自分が帰ると家族に迷惑をかけるのではないか、との思いが錯綜していたからだ。
■「他人の不幸の上に自分の幸福は築けない」
《ところが、そんな私の心中を察してか、クラウディアが、私に黙って日本総領事館まで行き、厚生省に出す帰国同意書やら、パスポートの申請やら、帰国に必要な手続きを一切合切やってしまったんです。当時私は直腸癌の疑いがあり、クラウディアは私が元気なうちに日本の久子の元に帰さなければいけないと必死だったようです。
クラウディアも私も、お互い以外に身よりがありません。七十を過ぎてからは、二人で無縁墓地へ行くようにもなりました。言わず語らずに、どちらが先に死んでも無縁仏になるのかと思っていました。ただ、「骨だけは日本に埋めたい」とクラウディアに言ったこともありました。彼女はそのことを忘れなかったのでしょう。
何よりも、自分が辛い思いをしてきたから、人に辛い思いをさせてはならない。他人の不幸の上に自分の幸福を築き上げることは決して許されるべきでない。これがクラウディアの信念でした。》
クラウディアさんの思いに背中を押され、翌一九九七年三月、蜂谷さんは五十二年ぶりに祖国日本の土を踏む。
《鳥取駅のプラットホームに降り立って辺りを見回していると、久子が小走りに駆け寄ってきました。私は久子の小さな体をしっかりと抱きしめて、何度も口づけをしました。
久子が苦労して建てた家へ行くと、門に「蜂谷」という表札が見えました。私はそれを何度もさすり、声を上げて泣きました。》
今年はその帰国からちょうど十年になる。久子さんは高齢で身体が思うように動かなくなってきたため、今は食事の用意から掃除、洗濯まですべて蜂谷さんがやっているという。
一方、クラウディアさんとは週末に電話で連絡を取り合っており、これまでに二度来日し、家族ぐるみの付き合いをしているという。
ちなみに、帰国後の一九九八年七月、ロシア連邦極東軍事検察庁は、蜂谷さんの無実を認め、名誉回復を交付した。
■祖国の恵み
半世紀ぶりに帰ってきた祖国日本は、蜂谷さんの目にはどのように映ったのだろうか。
《社会の様子も人情も、何もかもが変わっていました。最初の頃はかつての日本とは全然違う日本に戸惑いました。でも、抑留当時のことを思うとそれも仕方がないかな、と。
抑留者の中には、最後まで日本人としての誇りを失わない人々も多数いましたが、一方ではソ連になびいて共産主義信奉者になり、日本を悪く言う人も沢山おりました。そうした連中が日本に帰ってきて社会の構成員となったわけですから、ある意味で仕方のないことだと。
ただ、それだけではなく、米国の占領政策によって日本の歴史・伝統がずたずたにされ、日本が骨抜きにされたということを帰国してから知り、日本精神解体政策と感化の恐ろしさを知りました。》
「祖国の行く末が心配でならない」と言う蜂谷さんは今、年に数回、小中学校へ講演に招かれて、自らの体験を子供たちに伝えているという。
《私は半世紀もの間ソ連におりましたから、戦後の日本の復興には何一つ貢献できなかった。だから、そめて自分の体験が、子供たちの生きる力の源泉になり、元気づけることになればと、求めに応じて話しをさせていただいておるんです。
最近はいじめなどで自ら命を絶つ子供が多いけれども、私が子供たちに強調しているのは、命というのは「自分の命」ではなく、「国の命」であるということです。一人一人がそれぞれの場で役目を果たし、人様のために尽くそうと思って生きてゆけば、ひいてはそれが日本の国を支えることになる。だから、いじめぐらいで命を絶ってはならないと思うんです。私はもっと辛いいじめをソ連で受けてきましたが、どんなに辛い境遇に追い込まれても、人間死ぬ気になればなんでもできるわけですから。》
身の覚えのない無実の罪で異国の地に半世紀も抑留を強いられながらも、二人の女性に支えられ、必死に生き抜いた蜂谷さんの人生には、崇高なものすら感じる。だが、同時に、、そうした人生を蜂谷さんに強いることになったいきさつは、なんと理不尽なのかと慨嘆せざるを得ない。
その点について率直にぶつけてみたところ、蜂谷さんからはこんな言葉が返ってきた。
《私は長い間、苦労して、なぜ安岡のために自分がこんな目に遭わないといけないのかと思っていたし、随分怨みました。でもね、今安岡が目の前に現れて喧嘩なんかしても、私の奪われた青年時代、壮年時代はもう帰ってこないでしょう。
それに、安岡がこれだけ私を苦しめ、これだけ苦しい体験をさせてくれたからこそ、私は祖国愛というものをしみじみ知った。祖国の恵みというものを知ることができた。
ですから、今もし安岡に会ったら、「ありがとう」。こう言わなきゃ仕方がないでしょう。》(終)
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どうもお久しぶりです。コメントありがとうございます。
季節の変わり目はいつも体調が良くないのですが、悪いなりになんとか無事に過ごしています。
美加さんのブログも、コメントはなかなか出来ませんが、いつも読ませて貰ってます。お互い頑張って続けていきましょうね。
本当に万感の思いであったことでしょう。
こうした話こそ、子供たちにもっと知って欲しいですね。
体調、余りよくないようですが、お大事にしてください。
お互い、頑張りましょう。
私も、蜂谷氏は本当に凄い方だと思いました。自分をとんでもない苦難に陥れた相手に、「ありがとう」とは言えないですよね。
今の政治家の方々には、是非蜂谷氏の生き方に学んで頂き、日本人としての矜持を持って職務に励んで欲しいです。
そして、山崎拓、加藤紘一、河野洋平各氏のような売国行為を働く輩が減ることを願います。
・いやぁ、言えませんよね。
「崇高な日本人」では済まされない凄さですね。
感涙!
これは、本当の教育と言う物が、人と国の誇りを護った貴重な例でもありますね。
今の政治家など顔向け出来ないでしょう!
sesiriaさんはドラマをご覧になったのですね。ドラマでは教育勅語などを暗誦するシーンがなかったようですが、こうしたシーンこそ取り入れて欲しかったです。
教育勅語、五箇条のご誓文、百人一首を繰り返し思い出し暗礁され
それが心の支えになっていたとは感激です。今の日本に必要ですね。
私はこのお話のドラマを見ましたが
その、教育勅語などを暗誦するというシーンをぜひ描いてほしかった。
私も、蜂谷さんの体験を通じ、戦前の教育の素晴らしさを感じました。戦後の教育において、教育勅語のような徳目を失くしてしまったのは、大変な間違いだったと思います。
>milestaさん
私もこの記事を読むまでは、蜂谷氏のことは全然知りませんでした。大変立派で、素晴らしい方だと思います。
ロシア連邦極東軍事検察庁が、蜂谷さんの無実を認め、名誉回復を交付したそうですが、日本国としても、何か蜂谷さんに報いることをして欲しいですね。
私は、蜂谷氏の貴重なお話は、是非学校で使う教科書に載せて欲しいと思いました。
戦後の日本にこのような方がもっと早く帰ってくださっていたら・・・と思います。共産主義に屈せず、日本への誇りを失わなかった人ほど、拘留され続け、
>一九九八年七月、ロシア連邦極東軍事検察庁は、蜂谷さんの無実を認め、名誉回復を交付した。
でおしまいとは、ひどい話です。
シベリア抑留関係のTBを二つさせていただきますね。
戦前の教育はまったくすばらしい。
そしてその教育が蜂谷さんを生かし続け祖国に帰させたのだと思います。
大阪の学校教育指針に一言も日本人教育、国民としての教育の言葉がない、悲しくも情けないことです。蜂谷さんのお話を多くの子供達にも知ってもらいたいです。
ご紹介ありがとうございました。
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