『散る桜、残る桜も散る桜』 父祖の思いを受け継ぎ、次の世代へと伝えたい
更新が滞ってしまってすいません。2月11日に岡山県の護国神社で行われた田形竹尾氏の講演会に行かせて貰ったのですが、その後、疲れが出てダウンしておりました。
でも、田形氏の講演は大変素晴らしいもので、行って良かったです。またいつか記事にしたいと思っています。

今回は、靖国神社崇敬奉賛会(http://www.yasukuni.jp/%7Esukei/)の会報誌より、ジャーナリストの打越和子さんの書かれた文章が、上記の田形氏の講演内容と重なる部分も多かったので、引用します。少し長い引用ですが、是非読んで下さればと思います。

「英霊と共にある国」を守る責任

◆「横次元だけの国」への恐れ
昨年末、一枚の年賀欠礼への葉書が届いた。十年前、私が戦歿学徒のご遺族を取材していた時にお会いした方で、その方はご衛霊の年の離れた弟さんであった。まだまだお元気でいらっしゃるはずと思っていたのに、思いがけない訃報であった。

終戦後六十年が経ち、英霊の兄弟姉妹、戦友、そのような方々が次々と鬼籍に入りつつある。聞かなければならなかったことを聞き忘れたような、焦りにも似た気持ちに襲われることがある。あの戦争を体験しなかった者たちだけで構成される日本社会というものが、近い将来必ず実現する。そんことを想像すると、なんとなく空恐ろしい気持ちにもなるのである。

それは、なぜだろうか。同胞二百万の戦歿者を出したあの大東亜戦争とは一体何だったのか、後世の日本人によく伝わっているとは言えないからである。敗戦後の 占領軍統治の中で「侵略戦争」の烙印を押されたその戦争の是非をめぐって、国論は未だに統一されず、周辺諸国はそれに付け入るように様々な政治圧力を加えてくる。その結果、国のためにと命を捧げた二百万余の戦歿者に対して、日本は国を挙げて慰霊に尽くしているとは言い難い。その慰霊に誠心誠意尽くしてきたのは、英霊の父母であり、兄弟姉妹であり、妻子であり、恋人であり、戦友であった。時の政治がどうあろうとも変わらぬ愛情で「その人」を語り、供養し、國神社に詣でては手を合わせてきた。目裡(まなうら)には「その人」の面影がまざまざと浮かび、声も、匂いさえも蘇っていたはずである。

その慰霊の中核を担ってきた世代がいなくなるということは、その人々を頼って天降っていた英霊も、共にこの国からいなくなってしまうのではないか。そして、祖霊と断絶した、横次元だけの日本国が出現することを想像して、私は恐ろしい気持ちになるのである。
◆國神社と「生きるということ」
すでに、その予兆はあるのかもしれない。恐ろしく希薄な生命観しか持たず、簡単に殺人を犯す若者たち。親殺し、子殺しのニュースはもはや珍しくなく、幼い命を自らの欲求にまかせて弄(もてあそ)ぶ残虐な事件も後を絶たない。それらを特殊な人々による特殊な事件と片付けるには、あまりにその発生が頻繁で、私たちの社会のコンテが何か恐ろしく変質している証としか思えない。

自分の命をかけて後世を救った英霊を忘却し、その慰霊をないがしろにすることと、この社会の変質とは、深く関わってはいないだろうか。社会全体が目に見えない世界への畏怖(いふ)を失ったことで、何物をも恐れぬ、自我ばかりが肥大した人間が、続々と出現しているのではないか。

若者たちの希薄な生は、祖霊の断絶と無縁でないことは確かである。自分の生の根拠をどこに見出すか、自分は何とつながっているのか、そのような根源的な問いに対する答えを若い魂は求めている。先の大東亜戦争は、私たちにとて最も近い国史上の一大事である。国史上未曾有の、と言ってもよい。そこで祖先たちが何を守ろうとしたのか、後世に何を託していったのかを知ることは、自分の生き方を定める上で、ことのほか重要なことなのだ。「日本人として生きる」上で、それを知らずには生きられないといってもよい。その重大なことを教えられないで、いくら「生命尊重」を説かれても、いのちの実感は得られない。

國神社崇敬奉賛会では、「生きると言うこと」をメインテーマに掲げて毎年シンポジウムを開催し、私も初回から参加させていただいてるが、英霊を顕彰する國神社と「生きるということ」は、そのように、分かちがたく結びついている。

私も、英霊によって生きることを教えられた者の一人である。その体験について、少し記してみたい。

◆英霊と私
私が大学に入って最初に読んだ本は『短歌のすすめ』(夜久正雄・山田輝彦共著)という本だった。先輩に薦められて読み、仲間内でレポートしたこともあって鮮明に覚えている。短歌をつくるとは、心と言葉を一致させる修行なのだと教えられ、たいへん感銘を受けた。歴史上の名歌が紹介してあったが、その中に、昭和天皇の御製や戦歿学徒の歌もあって、とりわけ心に残った。それまで知らなかった言葉の世界に触れて、自分が直結する歴史の息遣いが聞こえてきたような気がして、うれしかった。これを契機に私の歴史学びは始まったのである。

私にとって国史への参入の契機が、短歌であったことは幸いであったと思う。当時を生きた人の心に思いを寄せるという姿勢をまず学んだからである。

そして、平成五年の秋のことである。その夜、私は特攻隊を描いた映画の試写会から帰り、一人思いつめていた。それまで特攻隊のことは知ってはいたが、改めてその行為の壮絶さに打ちのめされていたのである。その年の夏、当時の細川首相が大東亜戦争を「侵略戦争であったと認識している」と発言したことも考えあわせ、眠れなかった。ようやく灯りを消して横になった時、今までに聞いたことのない大勢の足音が遠くから押し寄せるようにやってきた。起き上がると、部屋にかけていた國神社のカレンダーの上に青い光がバチッバチッと音をたてて光った。そして、その足音は波が引くように遠ざかっていった。

不思議な体験であった。私は霊感は強い方ではない。しかしこの日は、「英霊が何かを訴えにきたのだ」と直感した。

それから、導かれるように、國神社とご縁を頂いた。当時、遊就館で開催されていた学徒出陣五十年特別展の取材である。それが、後のご遺族への取材につながっていった。英霊に誓いを立てるように祈りつつ、取材を進めて文章にしたのが拙著『國のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像』である。

先の鮮烈な「霊体験」は、私に何かを命じに来たような畏怖を伴うものだったが、執筆中にはまた違った霊との交流があった。

ご遺族から貸していただいたご英霊の日記や手紙を、一文字も見落とすまいと真剣に読みすすめていくと、「その人」の温もりさえ伝えてくるようであった。戦友や遺族の方々が、故人をなつかしむ心情を、ほんの少し共有させて頂いたような気がしている。

それまで、英霊といっても何ら具体的な思い出を持たなかった私の中に、十七人の戦歿学徒は鮮明な肖像を刻んだ。彼らが、国家のために自分がなしうる最も有益な道を捜し求め、自分の生死を祖国の興亡にかける矜持を胸に秘めて、純粋な生を生ききった志を、受け継ぐことのできる自分でありたいと念じ続けている。

今でも折々に、繰り返し拝読したご遺文の一節がふいに思い出されたりする。

私ノ肉体ハココデ朽ツルコトモ私達ノ後ヲ私達ノ屍ヲノリコエテ私達ヲ礎トシテ立チ上ツテクル第二ノ国民ノコトヲ思ヘバ又之等ノ人々ノ中ニ私達ノ赤キ血潮ガウケツガレテヰルト思ヘバ決シテ私達ノ死モナゲクニハアタラナイト思ヒマス
日本ニ生レタ者ニノミ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス

これは、フィリピンのルソン島で散華した茶谷武さんの遺書の一節である。今回この稿を書くにあたり、遺志の継承ということを考えていて、自然にこの一説が浮かんできた。「日本ニ生レタ者ニノミ許サレル永遠ノ生」への揺るぎない確信が披瀝されている。果たして今、私はこのような確信を述べられるだろうかと問うてみて、ふたたび、茶谷さんの言葉を読み返しながら、命をかけて後世を信ずるという偉大さを思った。信じられると思うから信じる、というのではない。命をかけて絶対的に信ずるのである。それは、すべてを尽くしきった人にしか到達できない境地なのであろう。自分の小ささを、思い知らされる。

英霊に応えていきたいと思いながら、実際は英霊に守られ、導かれながら生きている私である。彼らの生を伝えながら、自身の生を問い、いつも彼らに見守られている安心感を持ちながら進んできたように思う。

◆それぞれの世代責任
親族に戦歿者のない戦後世代の私の、ささやかな体験を記してきた。戦争体験を持つ方々の國への思いには遠く及ばずとも、戦後世代は戦後世代なりに、たとえばこのようにして英霊との絆を結んでいるのだという一つの例である。

私だけではない。英霊の後世への絶対的信は、そのご遺文を読んだ多くの戦後世代魂をつき動かす。パソコンのバーチャルな世界の恐るべき浸透速度に比べて、若い世代と英霊とが出会う機会は少ないかもしれない。しかし、國神社を訪れる若者の数は、確実に増えてきていると思う。

昨年の八月十五日、國神社の参拝者は空前の二十万五千人に達した。終戦六十年という節目に、これが最後との思いで、参拝に訪れた高齢の戦争体験者も多かったであろう。だが、戦後世代も多かったのである。当日は三十三度にもなる炎天下、乳母車の赤ちゃんにうちわで風を送りながら鳥居をくぐる若い夫婦、スーツ姿で粛然と参拝の列につらなる若者もいた。「終戦六十年の八月十五日は、國神社に集まろう」と、國神社二十万人参拝を呼びかけた「みんなで國神社に参拝する国民の会」の事務局も、戦後世代が担っている。

終戦六十年を迎え、戦後世代といっても幅が出てきた。平成生まれが高校生に育っている今日、私自身の世代責任ということも考えさせられる。大東亜戦争の歴史を「伝える」立場を、はや迫られていることに動揺してしまう。
(中略)
戦争に赴き戦友を失った方々が、自分たちが命をかけた戦いの真相を歪められてたまるかと憤るように、私も自分の戦後の生の実感をこめて、國を守ることの意義を伝えなければならないと思う。

英霊は果たして、この国土に止まってくれるであろうか、と冒頭に書いた。それは、自分自身の生き方にかかっていると肝に命じたい。(終)


最後に、文中に出てきた打越さんの著書を紹介します。関心を持たれた方は是非読んでみて下さい。

靖国のこえに耳を澄ませて―戦歿学徒十七人の肖像
靖国のこえに耳を澄ませて―戦歿学徒十七人の肖像


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コメント
この記事へのコメント
>田舎の神主さん
お気遣いありがとうございます。現在の日本の状況を見ていると、焦る気持ちになるのですが、無理せず、自分の出来る範囲のことをしていこうと思っています。
国というのは、今を生きている人だけのものではなく、ご先祖と次世代の子供達、この三代で成り立っているものなのですが、戦後の人々は、それを忘れてしまったように思います。
死して尚、この日本国を守って下さっているご英霊に感謝し、その思いに応える日本にしていかなければなりませんよね。

>かついちさん
今を生きる私たちは、かついちさんの言われるように、ご英霊の方々の、「命をかけて後世を信じ」戦われた崇高な思いを、子々孫々まで伝えていかねばならない責任があります。
私も、拙ブログでこれからも折に触れて取り上げて行こうと思っています。

>milestaさん
今回の記事は、田形先生のお話と重なる所も多く、早く皆様に伝えたかったので、少し頑張って打ち込みました。

私もこの文章を読んで、自分が「伝える」立場となったことを、改めて自覚しました。
うちは祖父は亡くなったのですが、祖母は幸いまだ元気でいます。ですから、今は努めて戦争中の話を聞くようにしています。

>ゆうさん
普段日本で生活していると、自分が日本人であることを意識することはありませんが、海外では否応なしにそれを自覚すると思います。
特に、国旗に対する思いは、日本以外の国ではとても強いものがありますが、それが世界の常識なんですよね。
海外生活を始められて、良い経験をしているようですね。
2006/02/15(水) 20:33 | URL | spiral #-[ 編集]
タイと同じく・・・
オーストラリアも国旗だらけです。
学校では校庭と講堂に毎日国旗が掲げられています。(国歌斉唱は週一回)またスーパーや外資系の会社(マクドナルド、トヨタ等)、個人の家でも毎日掲揚している所多数。建国記念日の近くになると国旗模様のグッズをいろいろ売り出し、当日は顔のペインティング、ネクタイ、Tシャツなどあらゆる所で国旗がはためきます。

こんな国に来て触発されたのか、我が子が幼稚園のとき日の丸を描いて持っていきみんなに見せていました。先生も友達も喜んでくれたけど、同じ事を日本でやったら・・・・?

自分の国を「好き」と言うのを何となく躊躇してしまう日本、おかしいですよね。

そういえば、我が家の近くのタイ料理レストランにはプミポン国王のお写真が飾ってあります。国王のお誕生日も盛大にお祝いするようですよね。
2006/02/15(水) 18:16 | URL | milesta #4On3Ze.o[ 編集]
最近思ったこと
日本を離れて半月が過ぎ、日本の友人に「改めて日本の良さが分かった」と
言うと、「どうしたの!?急に日本を誇ったりして」等、
殆どの友人が同じ反応を返したことに、とても切なくなりました(涙)
最近ではちょっとでも日本を褒めたりすると眉をしかめる人が多いように思いますが、
私からすれば「日本人が日本を好きで何がおかしいの!?」と
逆に眉をしかめてしまいます。

外国ではアイデンティティーがとても重視されます。
日本語では「自分が自分であるための証明」というところでしょうか。
そしてこれを語るにはまず最初に国籍(移民の場合は自分の両親の出身国)が
必要不可欠です。
自分の出身国を告げる時の外国人の堂々とした姿勢にはいつも
自分にはない何か大切なものを感じます。

ここタイでは、私の部屋(10階)のバルコニーから
町を眺めると、至る所に国旗と王室の旗が掲げられています。
アパートの向かいは中学校で、毎朝行程で朝礼が行われ、
その中で国歌を演奏しながら国旗掲揚が行われています。
そこでやっと私は先ほどアイデンティティーのところで
書いた「大切な何か」に気付くことが出来ました。
そう、国旗です!
外国人は皆自分の胸の中にいつも国旗を掲げているのです!
日本の様に、オリンピックやサッカーなどのイベントでだけ
持ち出すのではなく、いつもどんな時も、国旗は国の象徴であり、
日常生活の中で常に掲げられているものなのです。

何処にいても、私の国旗は日の丸なんだ!と、
また1つタイの人々に教わり、タイに感謝にて、今日もメイドさんが
部屋を掃除して帰った後自分で掃除し直すのでした(苦笑)
2006/02/15(水) 14:14 | URL | ゆう #-[ 編集]
「伝える」立場
お疲れですのに、記事を更新してくださり有難うございます。

>大東亜戦争の歴史を「伝える」立場を、はや迫られていることに動揺してしまう。

私も父が亡くなって以来ずっと動揺しています。祖母は戦争嫌悪症で戦争については語りたがらないし、母・叔父・叔母たちは戦後教育にどっぷり浸かった世代なので、冷静にあの戦争を語ってくれるのは祖父と父しかいなかったからです。もっといろいろ聞いておけば良かった。
子供達に歴史の話をする時でも「おじいちゃんがこうおっしゃってた。」という一言を交えると果然目の輝きが違ってくるのです。「自分と繋がっている」という意識の表れでしょう。

身内から話を聞くことは出来ないけれど「伝える」立場となってしまったことを自覚して、今後もきちんと歴史を勉強していかなければならないと肝に銘じています。
2006/02/15(水) 10:21 | URL | milesta #4On3Ze.o[ 編集]
特攻隊の遺言
鹿児島の知覧に特攻平和記念館というところがあります。そこに行くと、数々の特攻隊の方々の遺書とも言える言葉が並んでいました。数々の遺品や遺された言葉は、涙無しには直視できないものばかりです。父親・母親にあてた手紙、我が妻や我が子に対する思い、そして日本の将来を案ずる言葉。どれを見ても、胸に詰まる重いが致します。
戦争がいいか悪いか、それは私たちよりあとの世代が評価することになるかもしれませんが、いつの時代も、祖国を愛し、自分を産んでくれた父母や縁あって結ばれた配偶者と子供への愛は普遍であるということを教えてくれるような気がします。これが日本の精神であり、日本に生まれた以上はそういうことを伝えていかなければいけない責任があるのだと思いました。
2006/02/15(水) 10:19 | URL | かついち #JalddpaA[ 編集]
未来のこの国を生きる人たちの為にも
こんばんは。
田形竹尾氏の講演会に行かれたとの由、また記事にして頂けるとのことで楽しみにしております。
ただ、お体の方、あまりご無理為されず、御自愛の程をお願い致します。

>日本ニ生レタ者ニノミ許サレル永遠ノ生ニ生キルトイフコトガイヘルノデス

この言葉に現在、問題とされている靖国神社参拝の是非の答えが全て詰まっているように思います。
小野田氏のお言葉ではありませんが英霊との約束を反故にするなんて事は決して許されてはならないことであると思います。
この国は祖先が築き上げて来たものであり、祖先の霊と英霊と共に、我々現代を生きる者達が真剣にこの国の未来を考え、また創り上げていかねばなりません。
私も肝に銘じたいと再度、心を新たにしました。
有難う御座います。
2006/02/15(水) 00:35 | URL | 田舎の神主 #-[ 編集]
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