『散る桜、残る桜も散る桜』 父祖の思いを受け継ぎ、次の世代へと伝えたい
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今回は、月刊誌『致知』二月号より、上野重喜(うえのしげき)氏(放送ディレクター)の書かれた論文を引用します。

■トルコ人から教わった「世界の常識」

十数年前、NHKを退社し、関連の別法人で働いていた私に、JICA(国際協力事業団)から仕の話が舞い込みました。トルコ人の人口教育促進プロジェクトに手を貸してほしいというのです。

当時、トルコは人口増に対処するため、家族計画を推進しており、保健省傘下で、テレビ番組の制作やIT技術を通して母子保健・家族計画の普及に協力するのが仕事でした。

トルコは世界でも指折りの親日的な国として知られています。

ロシアと緊張関係にあったトルコは、日露戦争での日本の勝利を共に喜び、また、先の敗戦から見事な復興を遂げた日本への畏敬の念も多大です。

私が訪れた時も、国民の多くが日本に尊敬と憧れの気持ちを抱き、その発展に学ぼうと懸命でした。そういう国民性も手伝って、私たちのプロジェクトはおかげさまで順調に進展し、一定の成果を収めることができました。

現地では多くの知識階級の人々とも知り合いになりました。その一人に日本の歴史や文化に関心が深い三十代の医者がいて、彼の話に大変感じ入るものがありました。

彼は、かつてオスマン帝国として広大な領土を支配し栄えた自国の歴史に誇りを持っていました。オスマン帝国の歴史は十三世紀末から二十世紀まで六百年以上続きます。これだけの長きにわたり他民族を支配するためには一つの鉄則があったのだと私に教えてくれました。

その鉄則とは、五十年先を見越し、教育によって被支配国の伝統や文化を骨抜きにし、自分たちの思いどおりの国に変えてしまう、というものです。
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今回は、『倫風』10月号(社団法人実践倫理宏正会発行)より、三浦朱門氏の論文を引用します。

※三浦朱門(みうらしゅもん)
三浦朱門氏
●大正十五年東京都生まれ。作家。東京大学文学部を卒業後、日本大学芸術学部の教職に就くとともに、第15次「新思潮」に加わり作家活動に入る。昭和42年『箱庭』で新潮文学賞受賞。以後、『犠牲』『楕円』『正四面体』など次々と話題作を発表。独特のユーモアとエスプリの効いたエッセイも多い。文化庁長官、教育課程審議会会長などを歴任。平成11年産経正論大賞を受賞、文化功労者。同12年より日本芸術院院長。



■家庭教育を復活させ、健全な社会を
最近、若者による通り魔事件が相次ぎ、道徳の荒廃が大きな社会問題となっています。日本人の倫理観はなぜ、こうも希薄化したのでしょうか。作家で日本芸術院院長の三浦主門さんは、個人主義重視の戦後教育が元凶として、愛国心教育の大切さを説きます。

若者の心を歪めた戦後教育

今年六月、東京・秋葉原で十七人を殺傷した通り魔事件があった。ネット上で犯行を予告、トラックで歩行者天国に突っ込み、戦闘用ナイフで次々に人を刺すという衝撃的な事件であった。こうした若者による無差別殺人事件が、ここにきて頻発している。一月にも、東京・品川の商店街で十六歳の高校生が五人に切りつける通り魔事件を起している。三月には茨城県土浦市で二十四歳の若者が八人もの人を殺傷する事件があり、そのすぐあとに岡山県で、高校を卒業したばかりの少年が駅のホームから人を突き落とし、死亡させている。秋葉原の事件のあとには、八王子で女性二人が包丁で殺傷される事件があった。

このような無差別殺人は特異な若者が起した特殊な事件だといわれているが、果たして特殊な事件として片付けていいのだろうか。こうした事件が立て続けに起こるのは、人の命の尊厳を思う心や社会性が欠如し、自暴自棄になっている若者が増えている証左ではないのか。

私が若者であった戦前、こうした事件はなかった。現代の若者も私たちの世代と同じ日本人の遺伝子を受け継いでいるから、DNAレベル、つまり本質的に違っているわけがない。だとすると、過去には考えられなかった事件が頻発しているのは、生育環境の違いによるとしか考えられない。その元凶を探っていくと、道徳心や愛国心を否定した戦後教育に行き着く。

■道徳教育「再興」 教科書つくり市販 有識者会議が発足
2008.8.4 18:50

道徳教育をすすめる有識者の会
※「道徳教育をすすめる有識者の会」発足記者会見に臨む(右から)鍵山秀三郎イエローハット相談役、渡部昇一上智大学名誉教授、米長邦雄日本将棋連盟会長ら世話人 =東京・千代田区平河町(小松洋撮影)

 道徳の授業が形骸(けいがい)化するなか、モデル像を提示して道徳教育を再興しようと、民間の有識者会議「道徳教育をすすめる有識者の会」(代表世話人・渡部昇一上智大名誉教授)が4日、発足した。平成22年秋をめどに中学生向けの「教科書」を作成して市販する。中学の新学習指導要領が全面実施される24年春には、学校現場で副読本として活用してもらいたい考えだ。

 東京都千代田区の都市センターホテルで開いた会見で、渡部氏は「戦前は教育勅語(ちょくご)という徳目や基準があったが今はない。みんなが納得する方法で徳目を教える必要がある」と指摘。日本教育再生機構の八木秀次理事長も「道徳は価値観の押しつけと批判されがちだが、今は大事なことが何も教えられていない」と強調した。

 渡部氏のほか、鍵山秀三郎イエローハット相談役▽米長邦雄日本将棋連盟会長▽植田宏和全日本教職員連盟委員長▽廣池幹堂モラロジー研究所理事長▽丸山敏秋倫理研究所理事長-ら28人が世話人に就任。保守系の有識者ら101人が賛同者に名を連ねた。

 同会は、現行の道徳教材にはしつけ、教訓、先哲の言葉、祖先への敬意、生きる指針、国防、国民としての責務-などが欠けていると分析。「教科書」作成により、道徳教育のモデル像を提示するとしている。

 発行元は育鵬社に決め、小学生用の作成も視野に入れて作業を進める。今年9月~来年11月には、子供に伝えたい感動的な逸話や偉人伝などを一般から公募。優秀な作品を題材の一部に採用する考えだ。

 道徳をめぐっては、政府の教育再生会議(現・懇談会)が教科化を提言したが文部科学省は見送った。同会の動きは、将来の教科化を目指して民間から動きをリードする狙いもある。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080804/edc0808041850002-n1.htm



拙ブログでも何度か書いてきましたが、今は「教育勅語」や「修身」が廃止され、道徳教育は教科化もされず、おざなりにされています。最近の凶悪な事件を聞くにつけ、こうした道徳教育をおざなりにしてきた結果だと思うのは私だけではないでしょう。

こうした現状を憂い、「道徳教育をすすめる有識者の会」が発足し、活動をされることは大変意義があると思います。これについて、日本教育再生機構からのメルマガに詳細が載っていましたので引用します。
今回は、前回の記事の続きです。初めて読まれる方は、■「修身」とは何だったのか(前編)よりご覧下さい。



■人物主義と徳目主義の融合

では、国定修身教科書からうかがえる修身教育の特徴とは何なのだろうか。その最大の特徴は、子供たちがさまざまな規範や徳目を、単なる教師の指示や説教によってではなく、歴史上の人物の善行を手本として、知らず知らずのうちに身に付けることができた点にあったと言えよう。

実際、それが教科書編集上の狙いでもあった。例えば第一期教科書は編集方針として、諸徳目の配当について、「人物基本主義と徳目基本主義との長短得失を考え両者の長所を併せ取る」方針を採用する一方、史実を例話とする場合、「なるべく児童の経験に近くかつ児童が之を模範として実行」しやすい人物を選んだと言われる。こうした方針は、濃淡の差はあれ、全期を通して一貫してうかがえる特長と言ってよい。

例えば第二期国定教科書(巻二)の第一課から第七課までは、二宮金次郎の五歳から十六、七歳までの話だが、次に本文を引いてみよう(引用は『道徳教育の歴史』による)。
今回は、日本政策研究センター発行の『明日への選択』4月号より、「修身」について書かれた論文を引用します。「
戦前の学校教育では、「修身」という科目があり、古今東西の偉人たちのエピソードを通じて、正直、謙虚、礼儀、勤勉、公益、勇気といった徳目を子供たちに教えていました。例えば「勤勉」に生きよ、と言われても抽象的でよく分かりません。しかし、「修身」で使われていた教科書の「勤勉」の項目では、二宮金次郎のエピソードが記され、具体的な人物像を通じて血の通った形で道徳教育をしていました。
戦後修身は廃止され、現在では修身は否定的な固定観念でみられるようになっていますが、素晴らしい面もあったことを理解して下さればと思います。


■「修身」とは何だったのか
立派な人生観と志を育んだ日本の「教育文化の伝統」

道徳教育の充実・強化を求める国民の期待に反して、中教審と文科省は徳育の教科化を見送りとした。一体、わが国文教当局が、徳育の教科化に踏み切れないのはなぜなのか。

元国立市教育長の石井昌浩氏は、そこには戦後の修身否定論に根ざした「反徳目主義」の影響があることを示唆している。「徳目とは、『礼儀』『親切』『正直』などの行為の価値を定めた道徳の細目であり、戦前の『修身科』が『徳目主義』の典型である。修身科に対する否定から出発した戦後道徳教育の通奏低音は徳目反対主義だった」(産経新聞平成十九年八月二十二日付)と。要するに、戦前の修身科に対するある種のトラウマが「反徳目主義」と化し、道徳教育の充実(教科化)という課題の実現を阻んでいるわけだ。

事実、教育再生会議が徳育の教科化を提案した昨年、東京新聞は「『修身』復活はごめんだ」との見出しを付けた社説を掲載し、「徳育が昔の『修身』のような授業として復活を目指すのなら、批判は相次ぐだろう」(六月二日)と警告した。この社説は、それでいながら「修身」の何が問題なのかには一言も触れていない。今の日本の社会に、修身否定の固定観念が牢固として存在することの何よりの証左だと言える。

とはいえ、その一方では最近、「修身」の再評価とも言うべき動きも起きつつあるように見受けられる。例えばここ数年の間だけでも、『親子で読みたい精撰尋常小学修身書』『修身の教科書』『「修身授業録」一日一言』『「修身学」のすすめ」等の本が相次いで出版されている。

『親子で読みたい精撰尋常小学修身書』を監修した八木秀次氏は、国定修身教科書について、「『尊敬すべき人格』『優れた人格』というものの『かたちと内容』を具体的に示した『物語』の集大成」と指摘した上でこう述べている。「古今東西の偉人・賢人の具体的なエピソードを綴ったもので、今日の目から読んでみても違和感のないものが多い。ここに軍国主義や極端な国家主義を読み取り、全面否定するには惜しい『物語』の”宝庫”なのである」と。